2016年11月22日火曜日

まとめ

暑すぎる日本の夏から逃避するようにケニアに到着したのが8月21日でした。
この3か月、自発的に始めたわけではないブログを、意外とマメに、そして楽しく更新できたと自分でも感心しています。


ざっくり感想を書くと、

人々は生々しく、損得を意識しながら人間関係を構築しているんだな、と思いました。

人類学者の方が、「セルプヘルプ世界は、けっしてきれいで調和的なものではない。それは善意と狡知が交錯する闘いの場」(松田1999: 50頁)と表現していました。

研修を通して、ADEOスタッフも、ムソマの人たちも、私自身も、それぞれの損得や思惑を持って、打算的かつ合理的であろうとする態度が印象に残っています。

だけど同時に、助け合おう!今より豊かになろう!という自助グループや、NGO、政府関係者の強い気持ちにも触れたような気がします。「私たちの国は成長中だ」と語る彼らは、具体的に考えて、具体的に行動している。


私がもともとケニアに興味を持ったのは、この人たちと何かできるようになりたいな~という憧れからだったので、協同でプロポーザルを作成できたのは良かった。これまでの渡航では、何かを教えてもらう、ことはあっても、一緒に作る、といった双方向の作業はしてこなかったんじゃないか。この双方向の作業にあったからこそ、互いの損得を意識した。


そんなこんなで今日で更新は最後です。
くだらないことばっかり書いたと思いますが、こっちで感じたことを率直に書きました。

かといって、ブログは人に読まれることを前提に書いているので、ここに書いた内容は、しょせんは建前かもしれません。曲がりなりにも社会的立場や羞恥心があり、腹黒い本音を全てさらけだすわけにはいかないのです。ともあれ、嘘は書いていませんので。本音のなかでも綺麗なところを描いた感じでしょうか。


ケニアにはまた今後も通いますが、そこで感じたことや考えたことは、また別の方法や媒体で発信していけたらと思います。早速に、今週末は学会発表です( ^ω^)・・・(準備できてない)。


今日まで、この読みにくいブログを読んでくださった方々、お付き合いいただき誠にありがとうございました。

2016年11月19日土曜日

平等性と公平性

今日は、ちょっと長くなりますが、平等性と公平性について真面目なこと書きます。

平等性(equality)と公平性(equity)は似ているようで全く違うんですね。
開発学の分野でも議論途上の概念なので、明確な定義はまだありません。


あくまで仮ですが、配り方にのみ焦点を当て、その違いを書いておくと、
平等性というのは、同じものを同じだけ「配分」すること。
公平性というのは、各人のニーズに応じて「分配」すること。


ちょっとややこしいですが、たとえば、ある家族でリンゴを食べるときに、
等分に切り分けて、全員が同じ量を食べられるように配慮するのが平等性。
それに対し、リンゴが大好きな弟には3ピース、ごはん食べ過ぎてお腹いっぱいのお母さんには1ピース、硬いものが食べられないおじいちゃんにはすりおろしリンゴ、などと配慮するのが公平性。

つまり、不平等と不公平は時に矛盾するんですね。ひとりひとりの受け取る資源が異なる場合、それは「不平等」であるけれど、「不公平」かどうかは、また別の問題だということです。


で、プロポーザルを書くにあたっても、結構このことで衝突します。というのも、これまでADEOからの支援が特定のグループに集中していて、支援の届かない人から「不公正(unfair)だ!」という不満を聞いたからです。

ブシアオフィスのボスなんかは、「全員を支援することなんて不可能なんだから、不満が出るのは仕方がない」と聞く耳を持つ気すらない感じです。私個人の考えでは、確かに、不平等(unequal)なのは仕方がない、というかニーズはそれぞれ違うので、平等である必要はないとさえ思う。だけど、公平性(equity)はやっぱり考えないといけない。と思う。


それでまあ研修の後半あたりは、公平性を、どうやったら達成できるんだろうか、てゆうことを考えていたわけです。で、たぶん、究極の公平性を求めるのであれば、ひとつひとつの家庭の既存の経済力と見込みの経済力を、数値化して、その差異を均すように資源を分配すれば良いんですね。しかしまあ、間違いなく途方もない作業です。なぜかって、彼らの有している資本が多種多様で、かつ不安定であるからです。


そんなわけで、「どう配るか」という点に焦点を当てて公平性を目指すことはやめました。「どう配るか」ではなく、関係する人たちが「配り方に納得するか」という部分に焦点を当てることにしました。

なぜなら、公平性というのは、それが担保される状態のことを指しているけど、「どう配るか」という資源の配り方だけを問うているのではなく、その配り方に周囲の人が「納得するか」ということを問う必要があるのだと思うからです。そこでは、関係する人たちの、公正性(fairness)の感覚が大切で、配られる資源が不平等であることを、いかに各人が納得できるか、という点に影響を受けます。


たとえば、先ほどのリンゴも、「なんでおじいちゃんだけ、すりおろしリンゴなの!?」と不満を持つ家族がいれば、それは、公平性が担保されたとはいえない。だけど、「おじいちゃんは、硬いものが食べられないから、すりおろす必要があるのね」との共通の合意があれば、公平性が担保されたと考えられる。つまり、資源の配り方は同じであっても、それに関係する周辺の人が「納得するか」どうかによって、公平性が担保されたかどうかも左右されるのだと思います。


この「納得するか」という基準は、とても曖昧で、数値化できる性質のものではないし、もちろん完璧を目指すことはできません。これを承知のうえで、この微妙な感覚を大切にしたいと思う。


そんなこんなで開発の世界も奥深いですね。

これ以上書くと長くなりすぎるので、強引にまとめてみました。



ところで帰国します。もうちょいで空港に向かいます。


日本、すでに寒いそうですね。アホみたいな恰好してるので、凍えると思います。
日本に帰ったら、録画している真田丸を一気に見てやります。楽しみです。

2016年11月17日木曜日

くじゃ

ナイロビは、やっぱりスワヒリ語ばっかり飛び交っていますね。英語もずいぶん混ざってるので、聞き取りやすいです。

ところで、「Kuja」って、ケニア版スワヒリ語で、「来る」という動詞「ja」の命令形なんですが、この響きが私のツボです。

「く」に「じゃ」って最強だと思います。

というかスワヒリ語の発音って、なんか妙にかわいいと思う。
なんとなくjの発音が多い気がするんですが、それが広島弁とも近いからか親近感。

よちよち歩きの子どもを呼ぶときに、「くじゃ、くじゃ」とゆってるのが、本当にかわいい。
学校で男子生徒が意中の女子生徒を「くじゃあ~」って寂しそうに呼んでいるのも、すごいかわいいです。
ちなみに「く」にアクセントを置きます。

正式な?スワヒリ語では、「来る」の命令形は、「Njoo」なんですが、「ンジョー」って全然かわいくない。

「ンジョー」を使う人もいますが、こちらでは「くじゃ」の使用頻度が圧倒的に高い気がします。

2016年11月14日月曜日

ナイロビオフィス

ナイロビオフィスに約3か月弱ぶりに戻ってきました。なんともいえない微妙な緊張感がここにはありますね。というか、ブシアが緊張感なさすぎなのか。
仕事に集中できる環境が整っているというか、みんなが真面目にやっているから影響を受けるのか、私の作業もはかどる感じです。

何が違うんだろう?と思うんですけど、たぶん小さいことが少しずつ違うんですね。

たとえば、服装。ナイロビではみんなシャツにジャケット着てるけど、ブシアではシャツかTシャツ。ブシアの方がナイロビより暑いのもあるけど、ジャケットは見たことない。

たとえば、机の上。ナイロビは、ある程度キレイに片付いている。たぶん拭き掃除をしてくれているスタッフがいる。ブシアでは、ずっと前から置きっぱなしの飲みかけのペットボトルとか食べくずとか投げてあるので、机の上で作業しようと思うと、まず片付けから始める必要がある。


ちょうど私がブシアを離れる最後の日に、あるスタッフがオフィスの鍵を紛失したんですが、結果どうしたかってゆうと扉を破壊したんですね。「鍵がなければ扉を壊せばいい」という発想が、ブシアらしいなと思ったわけです。ボスは一応、最初は鍵屋に電話したんですが、すぐに鍵屋を待つのに飽きたみたいで、扉を蹴ったり、モップの柄でドスッと衝撃を与えたりして、強引に破壊しました。そのさまはどことなくシュールで、私はついつい笑ってしまいましたが、彼は真剣でした。なかなか壊れない扉を何度も蹴りつけ、真剣に破壊していました。


こうやってナイロビと比較してるとブシアの悪口に聞こえるかもしれないですが、ブシアにはブシアのペースがって、それはそれで面白いなと思います。んでナイロビでも、熱心に机に向かってるなと思ったら、爪にマニキュア塗ってたりするし、びしっとしてるようでしてないこともあるわけで。


ところで、私と入れ違いでブシアオフィスに新しい研修生がやってきます。彼とは昨日、ナイロビでお会いしました。彼のブログがこちらですhttp://banapple78.blogspot.co.ke/。ブシアオフィスでの格闘の日々を彼なりの視点で更新しくれると思います。楽しみです。

2016年11月12日土曜日

カラッとした空

ブシアの良いところは朝方のカラっとした空だと思う。
昼を過ぎれば暑くてそれどころじゃないけど、朝は良い。
あと、夜も良い。星がすごい。

建物も山も低いので、空が広すぎて首が痛い。


そんなブシアを離れてナイロビに戻ってきました。
ナイロビは人が多いですね、やっぱり。

ブシアからキスムまでバスに乗っていたんですが、アジア系の女の子を発見しました。なんと韓国の高校生らしく。「学校がつまらないから」ケニアに来たみたいです。1か月ボランティアしてたらしいですが、ネットで調べて1人で来たみたいで、たくましいなと思いました。

2016年11月8日火曜日

汚い字

キレイな字を書くことは良いことですが、日本でキレイな字に慣れている私は、こっちの人たちの書くアルファベットが解読できないことが多いです。もちろん字なので、それぞれクセがあるし、そのクセに慣れていないだけだと言われればそうなんですが。でも少なくとも私がアルファベットを書くと、こちらの人に少なからず、キレイだね、丁寧だね、と褒められます。

だけども、私はキレイな字に慣れていて、キレイな字を書けるがゆえに、こちらの人の字が読めない、というのはかなり不便なことです。


話が変わりますが、ブラック企業とか過労死とかの問題は、もちろん企業が明確な加害者だと思うし、その体制を見直す必要があると思います。だけど、今の日本には、自殺に追い込まれるほど働いている人が少なからずいて、その予備軍がまた数十倍いて、つまりはそういった企業がとてもたくさんある。1つや2つの企業の問題であれば、その企業が徹底的に糾弾されて体制改善をすれば解決すると思うんですが、そうではなく、たくさんの企業がブラックになっているのは、そうならざるを得ない要因が他にあるということ。何が言いたいかってゆうと、企業へサービスを求める、私たち消費者の問題でもあると思うわけです。

日本は、おもてなしの国だとか、マナーが良いとか、礼儀正しいとか、そうゆうところが対外的な美徳となっていると思います。大いに結構で良いことだと思います。


今滞在しているゲストハウスのスタッフたちなんて、レストランの机で昼寝してたり、お客さんのまえで商品をつまみ食いしてたりと自由です。夜中まで大音量の音楽で楽しんでいるかと思えば、朝6時くらいから大声でおしゃべりしています。水が出ないよ!湯が出ないよ!とか苦情ゆっても「どんまい、どんまい」て感じで謝罪はありません。平然と「うちの問題ではなく、この地域の問題なのよ」と言い返されます。と、日本で得られうるサービスと比較すると不満だらけなわけです。

で、私自身は、こういう不便さが、さほど気にならないのですが、その理由を、「日本とケニアは違うから」で片づけているだけでは不十分かなと思います。それでは問題の外部に解決策を見つけているだけだからです。そうではなくて、私自身のうちに起こる他者への寛容度の変化を大切にしたいなと思います。


そうゆうわけで、字の話に戻りますが、自分の字がキレイだからといって、他人の字を汚いと馬鹿にしたり、他人の字が読めなくなったりしているようでは、せっかくのキレイな字も美徳ではなくなってしまうように思うのです。

2016年11月6日日曜日

宗教

こちらでは頻繁に宗教の話題が出てきます。何を信じているの?と聞かれたとき、「う~ん、得に何も」と返すと、その後面倒なことになるので、「仏教だよ!」と答えていました。それで納得してもらえればいいんですが、「仏教だと、世界はどんなふうに作られたと考えるの?」とか、「仏教だと、何を崇拝するの?」とか突っ込まれると、もう止まらない。仏教には、一神教のような「神」はいないのよ、なんて言ってしまうと、ええ!ゴッドを信じないと救われないわよ!て感じで、どんどん話が長くなっていきます。


宗教の必要性は感じます。特に人の死に直面するときなど、決まり事のある儀式?が生きていくうえで非常に重要だと思います。それでも私の場合、あくまで客観的というか、宗教に伴う機能的な部分に必要性を感じているだけであって、何かを主観的に「崇拝するworship」というのは、よく分からない。

こないだの日曜日、ADEOスタッフと一緒に行ったペンテコステ派の教会で、何人かの教徒が祈りに入り込みすぎて、横転したり泣き叫んだりする様子を目の当たりにしました。正直ちょっと怖いなと思いました。他方で、今日行った別のペンテコステ派の教会では、熱心に祈っている女の子の姿を見て、率直に、美しいな、と感じました。なんだか神聖なものを見た気分でした。


宗教とか信仰というのは、世界はなぜできたのか?人間は死んだらどうなるのか?なんで私にばかりこんなに不幸が襲ってくるのか?というような、答えのない果てしない疑問に対し、解釈を付与する行為だと思います。

で、やっぱり宗教の面白いところは、その解釈の共有が、数億単位の人数の間で、文化圏や言語圏を遥かに超えて起こっているところ。解釈に限らず、聖歌や祈りの言葉なんかも共有していて、それってすごいなと単純に思います。

日本は宗教と独特の関わり方をしていますが、キリスト教やイスラム教などの考え方が現代世界の大部分を作ってきたわけで、ややこしくても、これらを理解する姿勢は重要かなと思います。ので、少しずつですが勉強中です。

2016年11月3日木曜日

スワヒリ語の不思議

スワヒリ語では、時間をいうとき、なぜか6時間ズレです。

たとえば、昼13時に、
英語で、「今何時?」と聞くと、「午後1時」あるいは「13時」と返すんですが、
スワヒリ語で、「今何時?」と聞くと、「7時」と返すんですね。
時計の針は同じように昼13時なら「1」を指しているのに、スワヒリ語で数字をいうときは「7」というんです。ちなみに、ルイヤ人(私の滞在地域に多い民族)の母語であるルイヤ語でも、同様に6ズレらしいです。

これが私にはやたらとややこしくて未だに慣れない。一応、1~10までのスワヒリ語は覚えているんですが、パッと出るわけじゃないので、しばらく考えなきゃいけないし、そのあとで、6の足し算しなきゃいけいない。
だけど、こっちの人は慣れているのかとにかく瞬時に使い分けてます。

日本とケニアの時差も6時間なので、
時差を聞かれたときに、「英語とスワヒリ語のギャップと同じだよ」というと、ちょっとウケが良い気がします。

2016年11月1日火曜日

焼き芋

私は焼き芋が好きです。
去年の今頃は、研究室で修士論文書いてるのか焼き芋作ってるのか分からないぐらい焼き芋を食べていました。同期や指導教員までサツマイモを購入してくださる始末で、ロッカーにはサツマイモがストックされていました。私が好きなのは、ちょっとチンしました、とかゆうのじゃなくて、じっくりオーブンで焼いて、「ねちょおっ」てなった焼き芋です。味付けをせずに素材だけで美味しさを競うコンテストがあるならば、焼き芋は首位独走だと思います。

ケニアでもサツマイモは結構あるんですが、私が見た限り、塩茹でして食べるのが主流です。まあ普通に美味しいんですが、やっぱりサツマイモは「ねちょおっ」てしてこそ本領を発揮するんですよ。

基本的に料理では炭火を使っているので、これはもしや焼き芋が作れるのではないか?と思い立ち、街まで行ってアルミホイルを購入し、ついに挑戦してみました!

やっぱり、芋の種類が違うのか(日本でもサツマイモの種類によって結構出来上がりに差がでます)、思った以上には「ねちょおっ」とならず、「ほくうっ」てゆう感じでした。まあでも美味しかったです!!こちらの人にも評判が良かったので、これ、売れるんじゃないかな?とか思ったんですが、どうでしょうかね?


というのも、マーケットとかウロウロして思うのは、失礼ながら「みんなワンパターンなんだよな」ということです。たとえば菓子的なものを売っている人は至るところにいて、私がよく買い食いしているチップス(≒フライドポテト)のほかに、サモサ(≒揚げ餃子)、マンダージ(≒ドーナッツ)、焼きメイズ(≒焼きトウモロコシ)などありますが、結局どれもこれも同じ!なんですよね。


驚くのは、同じものを同じ値段で、しかも隣で売ってる、とかも珍しくないことです。特に野菜とか果物ですね。ずら~と並んで皆でバナナを売ってたりします。おいおい、誰からバナナを買えば良いんだ?という気分になる。てゆうか、なんで同じものを売る人が隣に来るのを許すのかも謎です。「もし私がバナナ売りだったら、自分の隣に他のバナナ売りを座らせないよ」と友人に話すとなぜか爆笑されました。彼曰く、「価格競争するんだから良いことだよ」とのこと。まあ消費者の立場からはそうかもしれないですが、売る側からしたらどうなの?と納得がいかない。もしかして協同で仕入たり売り上げを分けっこしたりしてるのかもしれないですが。


儲けを出すために、必要なコストを削減する(というかチョロまかす)工夫がされているのは分かります。だけど付加価値をつけて差別化するとか、新しいものを売ってみるとかも大事ではないでしょうか。リスクに賭ける余裕がないと言ってしまえばそれで終わりですが、リスクを取らないと新しい世界は開けないのです。まあ端的にいえば、焼き芋売りが現れたら、私は毎日買いに行きますよ、ってことです。