2016年10月30日日曜日

昨日の続き

なんてゆうか、ケニアには肉体労働の過酷さがあって、日本には心理的な生きづらさがある、とかそんな比較をしたいわけではないんです。

もはや、あらゆる事柄を国と国で比較することには限界があると思います。ケニアでも日本でも、その困難の質は違えど、一定程度の人たちが、周辺環境による理不尽や苦渋を強いられている。

上手い例えを読んだことがあります。「みんながお腹をすかせていた中で育った子どもと、一人だけ給食が食べられない子ども。どちらがより貧困の影響を受けるであろう。答えは、それほどシンプルではない」(阿部 2011: 66頁)。

同じ指標で測ってどっちが楽でどっちが困難か、などと簡単に割り切れる問題ではない。

そういったことを伝えたいんですが、自分の中でもまとまってない考えを、外国語で伝えるには、語彙力と表現力が不足していて難しいです。

2016年10月29日土曜日

日本人は楽しているか?

私の住む西部地域は、土地が豊かといわれるゆえんでもありますが、よく雨が降ります。現在は小雨季にあたるので、ちょこちょこ夕方から夜にかけて雨が降ります。多くの家庭では、雨が降った翌日は水分を含んだ畑を耕す仕事が待っています。

ケニアの生徒たちと話していると、畑仕事は、水汲み、掃除、料理、家畜の世話など数ある家事のなかでも最も人気がなく、「長期休暇は畑仕事あるからつらい」と言わせるほどです。日雇い労働の定番でもありますが、ハードなわりに1日100Ksh(約100円)くらいしか稼げません。


この畑仕事のことで、少し口論になりました。相手のケニア人曰く、「日本での生活は楽だろうけど、ケニアでの生活は大変だ」とのこと。「日本では機械がやってくれるんでしょ?」とのことでした。まあ確かに生活の利便性はあるわけですね、日本には。だけど、「日本人はケニア人より楽に生きている」という意見には賛同しかねたわけです。日本だっていろいろあるよ、と主張したのです。すると、「あんた雨季に来てシャンバ(畑のこと)を耕してみなよ、昼ご飯も食べずに一日中。そうゆうことができるか?」て返されました。「日本ではごはんをどうやって作るんだ?たきぎを集めに行くか?」と追及されました。


確かに私は甘っちょろいと思います。ちょっと筋トレしただけでバテますしね。


こっちの学校で生徒と握手すると、「ミクの手は滑らかだね、畑仕事してないでしょ?」と言い当てられます。畑仕事をちゃんとしてる人の手のひらは、手まめがあって硬い。


でもだからといって日本人を「苦労していない」とくくられるのはすごく違うとも思う。


それでも私には説得力も何もなくて、彼らの生活を前に言葉を返せなかったです。

2016年10月27日木曜日

結婚

少々、更新をサボりました。わりと最近は忙しくしております。

先日偶然にも、友人(同世代の女の子)が、実家で婚約者を紹介する、というシーンに出くわしました。

友人が「彼が私の婚約者よ」と皆の前で紹介するときに、私は驚いて「え!婚約者!!わ~おめでとう!!」と反応したんですが、すぐ横に座っていたお母さんが私の腕をつねってきました。「まだ認めてない!!」という目線を送ってきます。お母さんは普段とても愛想が良いのですが、急に無口になるし、しゃべるときも声すごい小さいし、とにかく婚約者に対しぶっきらぼうでした。

その後、友人やお母さん、その他の家族が、チャイの準備などで散らばって、リビングに私と婚約者だけ残されたんですが、彼がこっそり「これは人生の大きなチャレンジだ」とつぶやいたのは面白かったです。

ひとしきりこの彼と結婚について他愛のない会話をしていたんですが、私が「博士課程の学生だ」というと「わお!教育を受けすぎだよ。結婚できなくなるよ」と言われました。余計なお世話ですね。


ところで関係ないですが、なんで日本は夫婦別姓を許可しないんですかね。職種にもよるとは思いますが、ある程度の年齢になれば、男性も女性も就職して名前で実績を重ねているわけで、苗字の変更にかかる苦労はすごいと思います。


ところでADEOスタッフから、来年6月に結婚式するから是非来て、と言われました。是非行きたいですね。


そんなわけで、まとまりのない更新でしたが結婚についてのお話でした。

2016年10月22日土曜日

延期に延期を重ねるミーティング

そういえば研修のことをあまり書いていませんでしたが、プロポーザルについて進めています。
ムソマという村の村民たちvsADEOスタッフvs私、で日々意見の擦り合わせに苦心しています。意見の対立は良いんです。私だけが納得のいくプロポーザルを作ったって仕方がないから、衝突を繰り返し何度も話し合って、ムソマ側もADEO側も全員が納得することが重要です。ただ問題はミーティングに集まるかどうかのところ。時間を守らないのは日常茶飯事なので気にしないですが、ミーティングに来ない、というのは大きなチャレンジです。

9月20日頃から、ボスが直接ムソマ側と話さなくては進まない事項が発覚し、その週末にムソマに一緒に行こう、と言ってくれたはずが、延期に延期を重ね、1か月が経過してしまいました。なんで延期してしまうか?というエピソードのひとつをご紹介します。

例えば、先週の10月13日(木)12時からムソマでミーティング、ということで前日には合意していたんですが、ボスが出発の直前に「あとで行くから先に行っといて」と言い出しました。ええ、嫌な予感はしました。とりあえず先に行きました。
11時半にムソマ代表者の家に行き、お昼ご飯をご馳走になったりしていたら12時半を過ぎてしまいました(まあ、この程度の遅れは誰も気にしません)。ミーティング場所に遅れていくも、あれ?誰もいない。もともとミーティングには83人(!)+私とボスが参加予定です。しかし、その週ムソマ周辺で5人の死者が出たことで葬式が立て込んでいるとのこと。とはいっても、少なすぎでしょう?そして案の定、ボスは来なかった。月曜に延期しよう、ということになりました。ボスとも電話で連絡を取り、10時開始で合意しました。

10月17日(月)、朝8時半にボスから電話。「今から病院行くからオフィス行くの遅くなる」とのこと。「あれ、今日ムソマだけど来れる?」と聞くと、「え?そうだっけ?何時から?」ととぼけるので、「10時から!」と返すと「あ~後で連絡する」といわれる。その後、私からムソマ代表者に電話し、「今日10時からだよね?OK?」と確認するも「あ、それ水曜に延期しようってことになったのよ~水曜でよろしく!」とのこと。延期したなら連絡しなさいよ。ボスに再び電話して「水曜が良いんだって、水曜どう?」と聞くと、「水曜は別の会議がある」とのことだったので、再びムソマに電話して「水曜はボス予定あるって!」と伝える。


そんなこんなで橋渡し役がいかに大変かというのが分かってもらえるでしょうか?なんでみなさん勝手に予定をコロコロ変えてしまうんでしょうね? こんなドタバタが重なって、結局、ボスと一緒にムソマに行けれていないのです。

集まれば議論は白熱するし、確実に前進するのが分かるんですが、集まるまでが大変です。



ブログでは愚痴っぽくなっていますが、実は最近驚くほど楽しいです。
あかん、楽しい。と心の中でつぶやいています。
うまくいかないことばっかりなのに、なぜか良い気分です。

2016年10月21日金曜日

ピキピキのちんちょんちーん

ピキピキの兄ちゃんたちは一応ケニアで公共交通機関のひとつになっていて、停留所みたいなところで固まって客を待っています。で、その前を通ると必ずちょっかいをかけられます。「チャイニーズ!ちんちょーん!」とかそんな感じです。ものっすごい鬱陶しいので冷酷な視線を向けるか、完璧に無視を貫いていたんですが、そんなのを繰り返してると何も言われなくなってきました。

勝手なもんですが、それはそれでちょっと寂しい気分になったので、私のほうから「ハバリゼニ?(=みんな調子どう?)」と挨拶してみました。そうすると「ンズリ!(=良いよ!)」と返ってきます。普通に挨拶するもんですね。今度から「ちんちょんちーん」と叫ばれたら、無視するんじゃなくて「セマハバリ!(=挨拶して!)」と言おうと思います。

面倒だからといって問題を未解決のまま放っとくのではなく、好転するよう働きかけるのは大切ですね。

2016年10月20日木曜日

英雄の日

今日は、「英雄の日(Siku ya Mashujaa)」という祝日でした。
ケニアの独立に積極的に貢献した6人の英雄を称える記念の日です。


ケニアを舞台にした映画は、いくつか見たことがありますが、独立の闘士マウマウが登場する良作は、『おじいさんと草原の小学校』だと思います。ケニアでは、2003年に初等教育無償化政策が改めて実施されたことを契機に、就学率がぐぐっと上がるんですが、そのとき、強い意志を持って入学を求めてきた人のうちに84歳のおじいちゃんがいました。彼は「最も高齢の小学生」として2004年のギネス世界記録にも登録されています。といいつつ、確かな生年は不明で、本人の記憶によるものらしいです。ギネスのわりに適当ですね。映画は、この実話に基づいて作成されています。どこまで実話なのかは知らないですが、ケニア独立のために多くの犠牲を伴ってイギリス植民地政府と戦った主人公の過去と、そのイギリスの言語である英語を学ぶために学校に来ている現在が、うまく対比されています。アンチ学校派の私でも、学校教育の良い側面を上手に描いたな、と思わされました。


ところで脱線しますが、アフリカの映画でズシっときたものの暫定ナンバーワンは、『ルワンダの涙』でした。ルワンダといえば『ホテル・ルワンダ』が有名ですね。あれは確かに心に突き刺さる名作だと思いますが、ゆってしまえば偉人の為した偉業を描いているんですよね。それに対し、『ルワンダの涙』で描かれているのは、理想と現実の間で苦しむ凡人の姿です。「人を助ける」って簡単なもんではない。というか無理ですね。自分を犠牲にしてでも他人を助けるなんて行為は、普通はできないです。邦題で損してる節はありますが、原名は“Shooting Dogs”です。なんで「犬を撃つこと」なの?と思いますが、映画を見たら納得します。とか思い返していると、もっかい見たくなりました。帰国したら誰か一緒に見ませんか?


映画は良いですね。映画に限らず、小説とか漫画とか論文とか、推敲に推敲を重ねて成しえた作品に触れるのは好きです。

と、ただの映画回顧録になりましがたが、今日は祝日だったので良しとします。

2016年10月18日火曜日

カバは嫌!

胃袋がどんどん大きくなっているのを感じます。

毎日一食はウガリを食べるんですが、最初のころは出されたウガリの半分も食べれば良い方だったのに、最近は、8割くらい食べれてしまいます。朝ごはんのチャパティも、最初のころは後半わりとしんどかったんですが、最近はいつの間にかペロッと食べ終わってしまっています。このあいだは米食べたい!と思って、マーケットまで歩いて行ってピラウ(米料理の定番)を注文したんですが、出てきたピラウの量をみて「うお!多いぜ!」と思ったわりに、気が付いたら完食していました。そのうえ帰り道で売っているチップス(フライドポテトみたいなもん)を買い食いしました。おそろしい食欲です。せめて歩いて消費しようと思って歩いているのに、途中で買い食いしていたら意味ないですね。このままだとデブになります。ちなみにスワヒリ語の「カバ(kiboko)」には「太った人」ってゆう意味があるらしいです。

今日、満面の笑顔で「太ったね!!」と言われました。こちらでは必ずしも「太った」は悪いことではないので、とりたてた含意はなく、「髪の毛のびたね!」と同じ感覚で、単に事実に言及しているだけです。

そんなこんなで、太ったのではないかという自覚はあったので、先週くらいから地道に筋トレを始めていました。といっても外で筋トレするのも恥ずかしいので、なんとなく動こう!というキャンペーンをひっそりと部屋のなかでやってます。1日5分しただけで筋肉痛になるもんですね。運動不足を痛感します。

今日は「太った」と言われたショックもあって、有酸素運動(という名の足踏みジョギング)を取り入れながら10分間の運動を試みたんですが、めちゃくちゃバテました。酸欠?っぽい感じで頭痛くなって、1時間くらい横になっていました。ひとりで動き回って頭痛くなるとかアホですね。しかも10分の運動で。情けないです。


2016年10月15日土曜日

続・ハランベー

私が昨日参加したハランベーは学費を集めることが目的でした。ハランベーを受ける主人公ともなる男性は私と同世代(誕生日が3日違い!)です。彼は聡明で、初めて話したときから「この人は違うな」と思わせる何かを持っていました。それでも、どうしようもなく理不尽な困難が何度も彼の人生に降りかかっています。

ハランベーに参加していたのはホストとゲストを合わせて30人ほどでした。参加していた人曰く、「とても少ない」人数のようです。ハランベーでは、どれだけ情報を拡散できるか、どれだけ人脈を持っているかが結構重要です。

まず、ホスト側から数人の挨拶があって、それから本題のお金集めに入ります。一人ひとりがいくら出したかが全員に分かるように共有します。ここでの最高額は10,000Ksh(約1万円)でした。ちなみにこの額を拠出したのはホスト側の代表です。ホストもゲストも、それぞれ出せる金額を拠出しますが、200Kshが多かったような印象です。もちろん20Kshとかコインだけの人もいるし、お金は出せないから、と家で取れた野菜や卵を持ってきている人もいました。代理で預かっているお金も、金額と提供者を全員に共有しながら進みます。人によっては、M-PESAというケニアで発達している電子マネーでホストのケータイにお金を送っていました。これらもちゃんと全員の前で共有されます。

さて、ここまでは人びとの準備した金額。ここからが勝負どころです。いかにゲストから絞りだすか、というのをホスト側があの手この手で頑張ります。ホスト側がこれ見よがしに自己犠牲しながら大金を拠出し、「みんなもうちょっと頑張って!!」と押し売りしてきます。私も体よく使われて、「50Ksh払ったら、この日本人と握手できるよ!」と前に立たされ、お金を集めるのを手伝いました。他にも、先ほどの野菜や卵を使って、オークションをします。高い値段を出せない人も、「あの人に10Ksh付け足すわ!」というふうに参加することができます。もちろん相場の数倍も高い値段になりますが、売り上げは全てハランベーです。ここでも私が体よく使われて、「日本にケニアの卵を送ろう!」みたいな感じで盛り上がり、数人でお金を出し合って卵を買ってもらいました。要は、いかに楽しくお金を出すか、てゆうのが工夫されているのです。


そんなこんなで最終的なハランベーの合計額は40,000Kshでした。金額がピッタリなのは、これまた最後の最後に39,000いくらかだったのを、「もうひといき!!付け足せる人!!」という掛け声のもと増やしたからです。この金額も、参加者にいわせれば「すごく少ない」みたいです。実際、ゲストではなくホストの人たちが大金を出していた印象だし、ハランベー終了後にはソーダと軽食のサービスもありました。なので、純粋な利益っていくらなんだろう?と考えると、すごく小さい金額のような気がします。


それでもハランベーは、お金を集めること以外にもいろんな意味が込められているような印象を受けました。と同時に、一人ひとりの人間関係の量と質が問われているようで、なんだかシビアな世界だなと思いました。ケニアでは、必ずしも学校に行かなくたって生きるための学びの機会は至るところにあるし、人間関係だって学校外で育まれているものも多いと思います。だけど、やはり教育レベルと収入は相関関係にあり、収入の多い友人をいくら持てるか、という意味で学校教育は大きな影響力を持ってしまっていると思う。学校教育は、それを受けた者に何かを与えるというよりも、それを受けなかった者から何かを奪うのではないかと、思わざるを得ないのです。

そしてやっぱりスワヒリ語を真面目に勉強したいなと痛感させられました。彼らが冗談を言って笑いあっているポイントについていけないのは歯がゆいです。

2016年10月14日金曜日

ハランベー

今日はムソマでハランベーに参加してきました。

「ハランベー」というスワヒリ語は、英訳・邦訳が難しいのですが、ケニアにおいて重要な意味を持っています。独立後の初代大統領ジョモ・ケニヤッタ氏はハランベーを国民統合と国家建設のためのスローガンとして掲げたほどです。

一般に個人レベルで「ハランベー」をやるときは、まとまったお金を集めたいときです。例えば私の知ってる例では、手術代、学費、交通費、などがありました。ある家庭でハランベーをやると決めたら、家族や親族がそれぞれ「ハランベー招待状」なるものを自身の知人や友人にたくさん配ります。基本的には、「ハランベー招待状」をもらったら、(代理を立ててでも)開催当日に開催場所に行く必要があります。どれだけの金額を拠出するかは自由ですが、たとえわずかでも、そのときその人が貢献できる額を出すべきとされています。そしてそれらは全て帳簿に記録されます。

ハランベーは、「助け合い」とか「自助努力」とか、ケニア社会に息づく「美徳」として語られることも多いですが、人によっては、汚職とどっこいどっこいだと指摘します。例えば、ハランベーの主催者が、地元の有力者や政府関係者などであった場合、「見返り」を求めてハランベーに参加する人がいます。これを「汚職」と表現するのが適切かは分からないですが、こちらでは、「汚職(corruption)」とか「賄賂(bribe)」は、かなり広い意味で使われてると思います。

私も詳しく分かっていないですが、ハランベーはリスクヘッジの側面が強いな、とは思います。他人のハランベーに参加するのは、もちろん助け合いの精神もあるとは思いますが、自分が主催するときに誰も来なくなったら困るからです。予測できない将来の緊急事態に備えて、少なくとも現在貢献できる金額があれば、他人に貢献しておくのです。

こちらのママが以前ハランベーについて指摘したのは、「ハランベー集団の階層化」です。従来のハランベーには、経済力の異なる多様な人が参加し、それぞれに出せる金額を拠出していた。しかし、近年では、例えば貧乏な人の主催するハランベーにお金持ちが来なくなった、とのことです。まあ、「どうせこの人、私がハランベーに招待してもちょっとしか出してくれないだろうな」と思った金持ちが、より見返りが期待できる他の金持ちのハランベーに参加する、というのは冷たいけど合理的です。「金持ち」といえども、相対的なものであって、それなりに大変だからです。ただ、このように、貧しい人は貧しい人で助け合い、豊かな人は豊かな人で助け合う、という助け合いの階層化が進むと、農村に息づいていたはずの「より多くを持つ者が、より多く出す」という公平性を創出するメカニズムが機能しなくなり、結果として階層間の差、すなわち格差が拡大するのでは、と感じます。(専門的なことは分からないので、あくまで印象)

そうなってくると、政府主導の公的な福祉政策の整備が進まないと立ち行かなくなりますね。


と、前置きが長くなりましたので、今日のハランベーの内容は明日更新することにします。

2016年10月12日水曜日

大物のように振る舞うな

今日、あるスタッフがボスに放った一言です。

今日はボスが何かと、このスタッフに対し「あれやれ」「これやれ」と横柄に指示していたんですが、我慢の限界だったようで、ついにスタッフがボスの指示を無視。それに対し、ボスは「おい、なにやってるんだ今」と声をかける。スタッフは、「へ~い、仕事やってんだよ!」と返し、続けて、「大物のように振る舞うな」の一撃。

いや、素晴らしいなと思います。

なかなか日本では考えられないような気がしますね。嫌な顔をするとか迷惑なことをアピールするぐらいはできるかもしれないけど、ボス自身の態度に対し喝を入れることは難しいと思います。

きちんと主張できる下の者と、それを受け入れる準備のある上の者がいてこそ、これが成り立つのですね。

こうゆう土壌があることは、とても大切だと思います。

例えば、日本の研究者の世界で考えてみると、学会なんかに行くと建前上は教員も学生も関係なくて、オフィシャルには「○○さん」とか「○○先生」という呼び分けはせずに、みんな「○○会員」って呼ばれます。「小川会員の発表に質問のある会員は挙手してください」とかそんな感じです。だけどまあ、実際のところは、発表者および質問者が、それぞれ学生なのか教授なのかで言い方や雰囲気は大きく変わりますけどね。
私はまだまだペーペーですが、それでも研究室のなかでは先輩側に回ってきているので、これまで先輩方にバシバシ言われてきた以上には、後輩にバシバシ言われません。だけどやっぱりバシバシ言い合う関係は大切だと思います。

なので、今日のADEOスタッフのやりとりをみて、すごいなと思います。改めて。

日本で簡単にできる多くのことがケニアではすごく難しいんですが、それと同様に、日本ではなかなか難しいことがケニアではすごく簡単だったりします。

2016年10月10日月曜日

ラッキーデー

今日は幸運でした。

朝、なんとなくスタッフに誘われて、あるミーティングに出席。テーマは、避妊について10代の女の子にどう伝えるか。実態として10代の女子は既にsexual active stageであること、妊娠による中途退学が非常に多いこと、HIV/AIDSの近年の新たな感染者は15~24歳の若者に集中していること、などの問題がある。
ケニアに10歳の母親がいるということで、もし10歳の娘が「避妊具が欲しい」と言ったら親としてどう対応するか?という議論がされていた。妊娠や性感染症を防ぐために避妊具の使用を徹底させることの重要性と、この年齢の女子に性行為を許して良いのか、という葛藤。
10歳は極端な例だけど、例えば、中等学校でも男女交際が名目上は禁止されているので、学校で避妊に関するレクチャーがタブーになってるとこもある。とくに避妊を推奨しないカトリックの学校では。だけど、ひとりひとりの命にかかわることだから、実態に対しきちんとアプローチすることも重要。
議論自体、面白かったし、そのうえ、昼食代として1,000Kshくれた。このへんのレストランだとどう奮発しても300Kshぐらいにしかなんないけど、金欠だったので思わぬ臨時収入に心躍る。


そして今日は、滞在しているゲストハウスのオーナーの60歳の誕生日らしく、夕方からパーティー。ADEOスタッフも一緒に来て、ビール、ソーダ、チキンが無料!やっぱりケニアで食べるチキンは最高。米も3週間ぶりぐらいに食べた。やっぱり米ってうまい。ウガリも普段のよりキメ細かく上質で美味しかった。ADEOスタッフやその友人など、いろんな人と話をして、くだらないことや下品な話題が多いんだけど、やっぱり楽しい。



私には、ケニア大好き!!とかゆう純粋で美しい感情は無いんだけど、なんだかんだ好き、という気持ちが細々と糸を紡いでいる感じ。ここの人たち、好きだなあ、と改めて思った一日でした。

2016年10月7日金曜日

ムズング

「ムズング」というスワヒリ語の本来の意味は、「西洋人」。
でも「西洋人」に限らず、私のような、いわゆる「黒人ではない人」は「ムズング」と呼ばれる。

ピキピキの兄ちゃんたちの「チャイニーズ!!!ちんちょんちーん!」というシャウトは本当に鬱陶しいので、ああゆうのは論外ですが、「ムズング」は中途半端に微妙な気持ちなる。

「ムズング」にどんな意味が込められているのか、考えてみる。日本語でも「外国人」と「ガイジン」では、ニュアンスが違うと思うけど、「ムズング」は「ガイジン」に近いのではないかと思う。正確な意味合いは知らないけど、私個人は、「ムズング」とよばれると「よそ者」とよばれているみたいで、確かによそ者に間違いないけども、少しばかり落ち込む。

いつもと違う時間に歩いていると、いろんな人にジロジロとみられる。あれ、なんで私ジロジロ見られてるんだろう、あ、そうか私ムズングなんだ!と思い出す。というのも私にとっては、まわりにケニア人ばっかりいる状況に慣れつつあるから、非日常にいるという感覚がなくなってくる。それでも、知り合い以外のケニアの人たちにとって、私はあくまで「誰やこのムズング」という存在。私自身がどれだけこの地域に親しみを感じるようになっても、永遠にムズングなんだなと思って、へこんだ。まあそれでも、個人的に知り合って、よくしてくださる方が少しずつですが確実に増えていて、それはそれで嬉しいことです。救われます。

この恩返しを、日本に来る「ムズング」にしたいなと思います。

2016年10月5日水曜日

リバーシブル

このあいだ、結核プロジェクトのデータをファイルに整理するという作業を手伝ったんですが、今日ボスに「雑にやったな?次はもっと丁寧にしろよ」とゆわれたので心外でした。確かに私もあまりちゃんと考えずにファイル閉じをしたので雑だったかもしれませんが、日ごろからオフィスの机には書類が散らばっているし、ゴミも投げたままだし、引き出しの中はごちゃっとしてるし、という状況です。

こんなふうに、おいおい自分のこと棚にあげてるじゃないかって思わされるこことはよくあって、
たとえば遅刻とか典型なんだけど、

朝7時に出発する、てなってた日に、

私:7時にオフィスに行く
スタッフA:8時過ぎに来る。自身の遅刻には一切触れず、まだ来ていないボスを責める。出発が遅れたら困る、と焦りはじめ、わざわざボスの家まで迎えに行く。ボスが家にいなかったので再びオフィスで待つ。
ボス:9時半頃に来る。自身の遅刻には一切触れない。
スタッフAとボス:チャイ飲みに行こう(=朝ごはん食べよう)と言い出す
私:飲み食いの速度が基本的に遅い。スタッフAに早く出発しないと帰りが遅くなるから急げ、と責められる。
結果:10時過ぎに出発

そもそも私は朝ごはんも食べてから集合してるのです。
連絡なしで数時間待たされた後、お腹減ってないのに、もっかいチャイとチャパティ飲んで食べなきゃいけないし、しかも急がされるしで、なんか私だけ損した気分でした。

私はもともと気が長いですが、ケニアに来るたびに気が長くなってる気がします。

ともあれ、こっちで感じる人々の寛容さと大雑把さは表裏一体で、私もつられて寛容にも大雑把にもなっています。だけど、他人に対し寛容になることと、自分に対し寛容になることは、やっぱり違うのです。私の価値観を相手に押し付けるのは間違っているけど、それと同様に相手の価値観で自分まで甘やかしては駄目ですね。

2016年10月3日月曜日

豚はなんでデブなのか

最近は家畜について勉強しています。
こちらで主に飼育されているのは、牛、鶏、豚、ヤギ、ヒツジです。基本的には食用(家庭で消費するか売るか)ですが、食べる以外にもいろいろあります。例えば、畑仕事に役立つ種類の牛がいれば、ミルクが得られる種類の牛やヤギがいる。鶏からは卵が得られるけど、種類によって値段が違う。とにかく、ひとくちに家畜といっても、意外と種類がたくさんあるし、飼育の難易度、飼育に必要なコスト、得られうる利益、栄養価など、それぞれにメリットとデメリットがあって奥深いのです。なので、いろんな人に話を聞いて勉強しています。

そんななか思ったんですが、なんで太った人を悪く言うときに、「豚」が登場するんですかね。豚って他の動物と比べて取り立ててデブというわけでもないと思う。でも豚を観察していて分かりました。やつらは食い意地を張っています。豚はなんでも食べます。たとえば、牛のための干し草がありますが、それを牛のところにあげると、たったったーーー!と豚がやってきて、横から食べあさります。しばらくして今度は鶏のところにメイズとミレットという餌をあげると、またまた、たったったーーー!と豚がやってきます。しかも!豚は、いつまでも食べ続ける。鶏や牛が食べるのをやめても、ひたすら食べ続けます。そのうえ、口を地面から決して離さず、休む間もなく黙々とハイスピードで食べ続けるのです。そんな豚をながめながら、このような食い意地を張っている姿から、太った人の悪口に「豚」が使用されるのだな、と思いました。あと、年を取った豚はビビるくらいデカいですね。あれはデブだな、と思います。

やっぱり豚をみると、千と千尋の神隠しを思い出します。というか、なぜかケニアにいる間、ジブリ映画の様々なシーンが頭をよぎります。「我が名はアシタカ!東の果てよりこの地へ来た。」とかリフレインします、なぞです。ちなみに魔女の宅急便の「落ち込むこともあるけれど、私このまちが好きです」というフレーズは本当に素晴らしいと思います。私は、そんな気持ちでここにいると思います。


脱線しました。
こんなふうに、普段は家畜に目もくれなかったですが、意外と観察すると面白く、謎もたくさんあります。

たとえば鶏は、ひよこ時代には「ピーピーピヨピヨ」と驚くほど高いトーンで鳴いていますが、あれがどうしていつのまにか「ゴゲッゴッゴーーーーー!」「ゴッゴッゲーーーー!!」と野太い声になってしまうのか謎です。あと、なんで歩くときに、あんなに首を前後に動かす必要があるんでしょうか。

ヤギは、ご存知のとおり「メエエエエエエエエエエエ!」と鳴きますが、「エ」の一つ一つに抑揚があります。そのうえ、鳴いている間は、なぜか一点を凝視しています。目が合うと、鳴いてる間中、見つめられることになります。ちょっと怖いです。


こないだ勇気を出して、鶏を絞める一部始終を見学したんですが、やっぱり、つらいものがあります。それでも、料理にしてしまうとチキンは最高においしいです。


最近やっぱり日本食が恋しくなってきました。とんこつラーメン食べたい!!もうウガリには飽きました。今日もウガリ、明日もウガリ、明後日もウガリ。ウガリにうんざりです。